地鎮祭をやって、家を建てるという実感が涌いて、暗転

 前にも書きましたが、非常に信心深くないので、地鎮祭も「ただの行事の一つ」だと思ってたんですよ。まぁ夫母とか夫祖母とかの気が済むなら、という感じで。それでも地鎮祭が終わったら急に「あ、本当に家建てるんだ」という気持ちになりました。うわマジ? みたいな。

 ゴミを出すためにカレンダー見て半年後はここにいないのかと思ったら、急に引っ越しどうするんだろうなぁと頭を抱えてしまいました。引っ越し作業は問題というより、猫が。猫が問題なのです。新居に連れてったらストレスで血尿再発するんだろうか。動物病院遠くなっちゃうなぁ。車嫌いで病院嫌いな猫だから、車で1時間は結構キツイだろうなぁ。でも病院も変えたくないんだよね。最寄りの動物病院といっても車で20分は掛かるし。

 それと、周囲の期待がしんどいです。分かっていたことではあるんだけど、長男である夫が戻ってくるというわけで、地元の方々が手ぐすね引いて待ってるんですよ。消防団とか。消防団とか。消防団とか。でも夫は普通のサラリーマンで、土曜も仕事が入るどころか日曜も仕事入ることもあるし、朝まで残業になることもあるんですよ。それはそれで問題ですけどね。地域の活動なんて草刈り程度にしてほしいというのが本音。草刈りは仕方ないから諦めるけど。あと私も婦人会は……無理だなぁ、性格上無理だ。どう考えても無理。というか嫌。絶対に嫌。偏屈者でもコミュ障でも何とでも言ってくれ。

 というか、「家族っていいもんだなぁ」「絆っていいもんだなぁ」という風潮がどうにもこうにも苦手です。みんながみんなハッピーじゃないんだよ。本当は同居なんかしたくないのに、どうにも逃れられないから自分で選択したふりをしてるんだよ。一番嫌なのは誰かに振り回されることだから「自分で選択したことだ」と自分に言い聞かせてきたんだよ。

 でも、どうして自分には「拒否する」という選択肢が出てこないのだろう。どうして自分は「拒否する」という選択肢を選べないのだろう。それはやっぱり「絆」なんだろうな。「手綱」という意味の絆。切るに切れない、綱。そんな手綱に引っ張られ振り回されて生きてきて、ようやく解放される頃には自分も老いている。人生って何だろう。いやでもそれが生物というものなんだろうか。むしろ人間だから余計なことを考えてしまうのか。人間、やめてえなぁ。落ち着け。

 おかしいなぁ、当初は「やっぱり地鎮祭など行うと、一つの区切りになって気持ちも改まりますね」みたいなことを書こうとしたのに、どうしてこうなった。楽しいふりしようとしてもできないんだな。

 

 ※2021年4月 加筆修正